自分の暗室を持って「モノとして紙としての写真」を制作するようになったのは実際ここ1年くらいのことで、当初はやってもやっても全く思う通りにならず、正直な感想としては「なんでこんな、しんどくて、面倒くさくて、こまごまとした出費に悩むようなことをしているんだろう」という感じで、過去のネガなんてなおさら発表したスキャンデータがあるんだしいいじゃん…という気分になって、ろくにプリントしないまますぐに暗室を畳んでしまったりしていた。一時期は「もういやだ!!」と思って引き伸ばし機を部屋の床におろして布をかぶせてほったらかしていた。
とにかく大きく感じられた要因としては「思うようにならない」という点に尽きていて、しかも(こうしてみたらどうだろう?)とか(こうしたときとこうしたときの比較をしてみよう)とか(自分で確認した結果のデータや統計を吟味してみよう)というひとつの動作がめちゃくちゃ面倒くさくて、なぜ面倒くさいと感じるのかというと、デジタルデータをいじくり回す方がはるかに簡単で、早くて、お金がかからなくて、一時中断しやすくて、何より発信しやすかったからだと今になってみて思う。
「思うようにならない」と感じてはいたものの、ではその「なってほしいイメージ」つまり、自分がどういう像を印画紙に結びたかったのか?というと、その時はそれまでに自分自身で慣れ親しんでいた自分で発表した自分のネガのデジタルデータとしての像を暗室で作り直そうとしていた、ということに後から気がついた。
わざわざ暗室を構えてまでネガをプリントにしようとしているのに、どんなプリントになるべきなのか?というイメージが「既に以前自分で作ったデータのやり直し」なのだから、そういう心意気のまま暗室にいても「最高にうまくいったとして、やっと過去の自分に追いつく」という構図なのだから面白くなるわけがないのである。苦痛に感じるのも当然のことだ。(今になってみればであって、当時は本当になぜ苦痛なのか謎だった)
5月のデザフェスは「せかオム」ブースに参加するというかたちだったんだけど、本格的にやる気になったのが開催まで残り100日を切った段階で、とにかく形にしないと話にならないという気持ちの焦りもあって、一旦自分にとっての暗室のあり方について真剣に悩んでみて、やっと上記の理由に思い当たったような感じだった。
撮影「するまで」と、撮影「してから」を完全に分離して、自分は生まれて初めてこのネガに出会ったのだという設定で、なおかつ(これは俺が撮ったネガではない)とまで自己暗示するような面倒なことをしないと、撮影という脳内イメージを外に出す行為と、既に外に出てしまったネガを自分のイメージとはもう関係ないただの物体として素直に向き合う行為を区別できなかった。
それまでの、モデルさんが決まる⇒構想⇒撮影⇒ネガスキャン⇒画像加工⇒発表⇒おわり、という流れが染み付きすぎていて、これを忘れないと(忘れるというか違うことをやっているのだという自覚ができないと)新しくなれない!とハッキリ理解してからは、かなり順調に暗室技術に対しての意気をコントロールできるようになって、今も続いている。
0 件のコメント:
コメントを投稿