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2013年9月3日火曜日

なぜ「こだわり」は起こるのか

ノートリミング至上主義(記録した全データとしての形状を変化させないこと)というような意味で呼ばれる、画像加工を女々しいことであると考える宗派のひとつがある。
シャッターを押したことによって決定された画像の全容のうち、その枠の中から敢えてもっと良く見えるような範囲を切り抜いてしまうことは、シャッターを押す前の段階で、またはカメラを選択する段階でできていなくてはならないのであり、結果として自分の感性について責任をもたない甘えた姿勢であるという教義をつらぬいている。

たとえば正方形の画像として記録される中判フィルムの場合は、正方形のそのままの画像として出力することが正しいことになるため、通常長方形をしている印画紙にそれを現像する場合、短辺方向に正方形を合わせる訳だから、長辺方向の上下に余白を残すことになる。(正方形のマットを使用した正方形の額に額装すれば自然になるが)

ネガをセットするネガキャリアは、ネガキャリアを透過する引き伸ばし機からの光の枠の形を決めるための穴が空いていて、その穴の上にネガを載せるわけだけれど、上記のような感性を証明するために、ネガキャリアの穴をヤスリで削って広げて、この枠の外にはなにも写っていない、トリミングなどしていないということを印画紙上に示すようなことも行われる。透明なガラスのキャリアを使って、フィルムのパーフォレーション(フィルム本体の上下に連続して空いている穴)まで印画する主義の人もいる。

個人的にはトリミングはまったく許容できる範囲だと思っている。
そもそも正方形のネガができあがる中判フォーマットというのは、35mmフィルムのカメラに比べてカメラ本体が巨大で重たいし、二眼レフカメラのように、カメラを横倒しにして構えることができないわけではないが困難であるハード的な事情からして、そもそもの根源が「あとからトリミングすればいいように、フォーマットを正方形にしてしまえ」という発想で正方形になったという話を聞いたことがある。(本当のことかは不明)

しかしながら、上記のようなノートリ至上主義以外にも、そういう従うべきルールというか、破ってはいけない信条というか、そういうものに縛られたり守られたりすることに、ある種の美しさとか潔さを感じるという気概には強い共感を禁じえない。情報社会化とか技術の革新などによって、そういう気概が失われていっているという嘆きに近い感情についてもまったく想像に難くない。(本当に嘆かれるべきことかどうかは別問題として)

個人的にも、写真に関わるようになったごく初期、生まれて初めて自分のカメラとして所有したおもちゃのようなホルガを使いながら「一眼レフを使うなんてとんでもない!」と思っていた。なぜなら、カメラの前にあるものに対してカメラを構え、シャッターを押すという行為について内省するとき、一眼レフカメラというのはファインダーから見ているその像そのものが正確に反映されるために、逆に言えば「失敗するべきだったときにそれを事前に察知して回避することができてしまう甘え」だとか「妊婦の腹の中を確認して、気に入らなければそもそも無かったことにし、望ましい子供だけを選んで生ませる」というような非神聖的・非人道的な領域にあるものだという感想を拭えなかったからだ。

ホルガの破損だとか、それまでに感じ得たもろもろの考えの広がりから一眼レフを使うようになってからも、こういう自縄自縛は続いた。「なぜシャッターを何度も押すのか。本当に心が決まっているのなら、たった一度でいいはずだ」という気持ちはものすごく強く、それはフィルムという有限のメディアを使っていることに対してのプライドというか、ビデオカメラの録画を後から一時停止するかのようにいくらでも無節操に連写できるデジタルカメラに対する侮蔑の念が意識にこびりついていて、それが奇妙な「こだわり」として表面化していた。今ではきちんと多段露光する。

結果として、そうした珍奇と思えるようなこだわりも、今では大切な思い出として制作に対する意識の血肉になっている。骨と言ってもいいかもしれない。昔のネガ帳を見ていると、1コマ1コマが張りつめて、息の詰まるような不自由が濃密に思い出される。せめて前後にもう1段ずつ露出を広げたものを計3コマ撮っておけばよかったのに…と思わないでもない。実際にそうしておけばきちんと像になっていたものもたくさんあった。でもそれでいいのであるとしみじみ思う。義務やクオリティが要求される業務とは違って、結果として失敗したことを許される個人的な行為であるからこそ、そう思うことを許されるにすぎないのだけど、社会や概念がどんどん進んでいく中で、こういう非効率的で、ばかみたいな「こだわり」に、とても合理的とは言いがたいけれど、奇妙な慈しみのようなものを感じてしまう。そしてそれらが、一般常識として殺されていくように思えてならないような不安も。

実際、自分もどんどん変化していくことだろうと思う。
カラー写真をやるようになるかもしれない。デジカメだって使うようになるかもしれない。写真なんてやめてしまうかもしれない。でも、今こうしてしがみついている「いつか死ぬであろうもの」を、たった今こだわっていることに、少し生きること自体を重ねてしまう自分がいるのである。

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