※下書きに放置されていたものを放出します。
未来は世の中がこんな風になるだとか、近い将来にこんな新しいことが起こるといった話題は、ずっと昔から絶え間なく続いて終わることがない。
そうした話題にときどき出てくる「夢を録画する装置」については、自分でもいろんな想像をするし、もしそんなことが実現するとしたら、すごいことだなと思う。本当に夢のよう。
夢だとか想像ってなんだろう、現実ってなんだろう、この頭の中にあるものと外にあるものは何がどう違っているんだろう、ということを性懲りもなく想像する。
夢を録画するということに限らずとも、人は頭の中にある何かを、心に生じている何かを、この五感でもう一度感じ直すことができるような工夫をずっと続けてきている。
自分がたった今、さっき、ずっと昔に感じた何かを、時間に吹き飛ばされて消えようとしている何かを思い出そうとしても、常に目が覚め続ける眠りのように、それは不確かに再現され続けている。
「理解」 という状態だとか現象が真にどういったことを指すのかはわからないけど、ごく単純なたとえ話のひとつに置き換えるとしたら、知恵の輪とかパズルのようなものを一旦解いて、それをまた元の状態に戻すことが自由にできる状態のことを言うのかなと思う。問題を解くことができるのと同じくらい、問題を作ることができる状態とも言えるかもしれない。先生が生徒に教えようとしていることを察知して、いい質問だ!と言わせるような芸当もそういう状態の発露なのかなと思う。
入っているものを、出す。出ているものを、入れる。
これを何度繰り返しても等しくなっている状態は、あり得るのだろうか?それは、人がなにかを実現するという現象自体が実在するのかどうか?ということになるのだろうけど、さらに言えば、人は何かを感じているのか?ということになり、この心は実在するのか?ということに等しいような気もする。
眠っていたときの無意識を再現できるということは、一分前の自分が確かになって、一年前の、十年前の、生まれてきたことを再現することで、目が覚めているときの意識を五感に入れ替えられるということは、一分先の自分が確かになって、一年先の、十年先の、いつか死ぬことを実現する、理解することなのかな、というようなことを想像してしまう。
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