どうして自分は写真をやるのだろうと考えることがある。
自分がやっていることって何なのだろうか?とか、そもそも実際に自分に「やれている」のかどうか?という疑念に駆られることも多い。具体的に手を動かすこともせずにぐちゃぐちゃ考えてばかりで何もできていないこともあれば、心を無にしてひたすら手の動きを他人のように見つめているようなときもある。
自分はカメラマンではないと思う。
というのも、頻度としてカメラを全然使わないからだ。申し訳程度にコンパクトカメラは持っているけど、外に出て何か感じたときに一瞬でそれと切り結ぶような、運命を引き寄せるような魔力を持ったものすごいカメラマンたちとは根本的に違うと感じる。最新の技術や知識をどんどん吸収して理解し、社会の中で必要とされる意味のある写真をキッチリ撮る。それはものすごいことで、まさにプロとしか言い様がない。
以前、テレビ局で働いていたころは、日本中を回ってロケをしていた。デジタルビデオカメラを一人で担いで街ゆく人々にインタビューをしたり、その一瞬に起こっている現象を見逃さず、しかも正確に、商品として「使える」ような「意味」のある映像を素材として収録し、それをつなぎ合わせてVTRを制作していた。もちろんチームでやっていることだから、その一端をできる範囲でやらせてもらっていたという程度だけど、求め「られる」ものとは何か?というのを、何となく体感していたようには思う。
しだいに「自分一人でやりたい」という思いが募っていき、誰にも関係ないところに閉じこもって、100パーセント自分の思い通りになったものを見たいと強烈に感じるようになった。仕事は仕事で本当に楽しかった。実入りはカスみたいなものだったけど、どんなものを作るべきなのかという明確な目標があって、合理的に誰もが納得する評価基準があった。ワクを拡大して言うなら、それは数字のことだ。数字のことはいいとして、モノ作りの業界を抜けてしまってからも、趣味としての写真は今も続けている。
はっきり言って自分が作っている写真が数字になることはないだろう。
誰も求めていないものだし、意味が無いものだからだ。でも決してそれはネガティブな現象ではなくて、個人的な、本当に私的であることに傾倒してきた結果だと思っている。私的であることが個人の幸福を普遍的にすると信じているけど、その辺は省略する。
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現実と対峙するためには数字を作らなくてはいけない。
自然ななりゆきといえばそうなのだけど、今の目標は「巨大な写真をつくる」ことだ。
大きさという説得力はすさまじくて、もちろん「なぜ大きくなくてはならないのか」という点での格闘は避けられないんだけど、観点をずらせば「なぜ小さくなくてはならないのか」との格闘でもあると言える。端的に言えば、大きなモノは大きな数字に等しい。
現状、暗室に精通している立場の方から言わせると「練習するにしても最低このくらいの大きさでないと練習にならない」程度のサイズである六切に専念している。なぜならそれが今の自分の限界で、それ以上大きいものは、作ろうと思っても、経験も知識も技術もまったく足りていない。言い換えれば、現時点では消去法的に小さくなっているに過ぎない。
「大きなものも小さなものも作れるのに、敢えて小さくつくる」というところまで最低でも到達できなければ、小ささは無意味な小ささに過ぎないままだ。大きな写真を作るために必要なことを少しずつでも揃える。
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書こうとしていたことがひとつも書けていないんだけど、とてつもなく長くなるので何度かにわけて書きたい。
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