Translate

2013年9月8日日曜日

感動すべきもの

「いいもの」という概念がある。

優れたものは劣ったものより優れ、劣ったものは優れたものより劣る。個々の自由な価値観によってそれぞれは裁かれて、もはや善悪の領域にまで食い込む。それぞれの法律によって自分自身をも含むこの世のすべては優劣を強いられ、優れたものは愛され、劣るものは虐げられる。

優れたものとはなにか?劣るものとはなにか?というのは個人が自由に設定できるものではあるが、多くの人が感じる価値観に結果的に一致することもあれば、逆にそれらに対して合意し返すこともできる。そうした果てしない優劣の決めつけ合いの繰り返しの中で、自然に「証明せよ」という闘争本能や生存本能の表れに苛まれ、勝ったものは正しいとされるし、負けたものは誤りとされる。しだいに人々は合理的に美しくなり、論理的に殺す。そして感動「すべきもの」に永遠に心を奪われ続けていく。

確認するまでもなく自分たちは人間だけど、実のところ、ほとんど人間に「してもらっている」またはそう認め合っていると表現する方が正確なのではないかという感覚にしばしば陥る。生きている限り、自分自身の意識や肉体という個が「人間」なのか「私」なのかという問題に常に悩む。どちらでもあると考えることはどちらでもないと考えることと同じくらい易しい。

この世には存在を感知できないほどにたくさんの人間が確かにいるようで、言葉も通じなければ一生個人と認識しない人がほぼすべてを占める。「私」が「私」であるのと同じように、または同じ程度に「あなた」を「あなた自身」であると感じることが出来る機会は人間全体からすると砂漠の砂のひと掬いにも満たないことだろう。

この世にあふれている「感覚」は私という一単位の体感の70億倍あることは間違いないのだが、70億通りの感覚を別個に認めることは、私とあなたは違う生き物であり、私「たち」は人間ではないと考えることに等しい。より死なないように、より恐怖しないように本能が働くのなら、独りで生きていくことができないとすれば、個人が違う生き物であると認める訳にはいかなくなる。まるでひとつの生き物を構成する細胞のように、矛盾する思考をひとつの頭脳に詰め込んだ悩ましい人間そのものになりきらなくてはならない。息を吸って吐くように、自然な代謝として細胞同士は「ある方向」へ行かざるを得なくなる。右手は右へ行き、左手は左へ行くというわけにはいかなくなってしまう。

----------

人間が営む表現活動、根本的には感情、末端的には言語、身体の外に出た部分では例えば美術や経済活動のすべては「人間であることを表現する」ことと「私であることを表現する」ことに大別できるのではないかと考える。もちろんこれらは自分自身が人間であり私であることに立脚されて混じり合ったうえで吐き出されるものだから、白黒つけることは不可能なのだけど、方向性を帯びることはあると思う。その方向性の是非について感ずるところがあって、それは人が何に感動すべきなのかということについてだ。

人は、それぞれが「私」であることに感動するべきだと思う。そして、私以外にも私がいる。それどころか、私以外のすべてが、それぞれのそれぞれ自身であると完全に理解することに感動すべきだと思う。結果、私は人間になる。人間に私がなることと正反対の認識ではないかと思えなくもないが、これは右回りに書いた○と左回りに書いた○が、書いてみれば結局同じ○になるように、同じことを言っているに過ぎないのだけど、その○が書かれることは、永遠にない。永久に書かれようとし続ける。

ただ、それが○になる場所がこの世にたったひとつだけあって、それが「私」だ。
と、「私」は思う。不思議に人間として。

そうして人間をやめようとすると、果たして人間になったときと同じ形に行き着く。
同じように人間になろうとすると、果たして私になったときと同じ形に行き着く。
というような仕組みになっているのではないかと思う。

---------

めちゃくちゃに観念的で非論理的なことを書き連ねてしまったのだが、言おうとすると言えなくなるような点があって、それは夢のように書こうとした瞬間に書けなくなってしまう。

いつかそれを表すだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿