「ただいまと言うことにした」という展示を見に行った。
新宿眼科画廊という名前はときどき見かける。眼科医の先生が持っている画廊なんだろうか。新宿東口から10分くらい歩いたところにあって、素直に表を歩いていけばよかったのだが、きょうは道路が歩行者天国になっていたせいで人がうじゃうじゃいてウッと思い、歌舞伎町の中を抜けていったところ「DVD、DVD」「DVD?」とたくさん声をかけられた。DVD。
眼科画廊の裏手に喫煙所があったので一休みした。自販機の裏に隠れ込むようにスペースが設けられていて、いいぞ、と思った。空き缶のゴミ箱のそば捨てられた食べかけのハンバーガーの包みに野良猫が頭をつっこんで食べていた。
画廊の奥に入ると涼しくて壁が真っ白になったスペースがあった。コンセントの差し込み口やスピーカーまで白く塗られていて、白い…と思った。
展示は5人の作家によるグループ展だった。展示というものに殆ど行ったことがなかったけど、今回は展示のタイトルにすごく惹かれたことと、普段から好きでよく見かける作家さんのものだったので出かけてみた。
現在はどんな作品もただちにデジタル情報になって世界中に拡散されるものだけど、実際に手が触れて形になったばかりの、形になったまま時間が止まってしまった物体としての、質量あるオリジナルを、この目で見るというのはすごく良いことだと思う。今すぐにでもこの作品に、鉛筆で、絵の具で、その他でもって、このかたちを変更してしまうことができる。完成したということにはなっているけれど、今すぐにでもそれを壊すこともできる。ここに飾ってあるものたちは、完成していながらも、完成していないことにもできる。それはそれが、ネットに流れている画像だとか、写真に撮った情報ではなくて、それが質量をもったそれそのものだからそうできるのであって、見ていると「この瞬間で描くのをやめたのだ」「時間が止まっている」ということがよくわかった。時間が止まった人間のようだった。あの作品そのものだけが持っている「終わっていなくもある」というすごさは、見てしまった、知ってしまった、違うものに変換してしまった、という終わってしまう側(私たちのように)にとっては、触れ得ないものだなと思った。
情報というのは奇妙なもので、誰かが「私はこういう人間です」とか「あれはああいうものです」「こうです」と言葉や文字としての情報で説明したとしても、結局はそれそのものの方が、説明しようとしたものや感じられるものをそもそも完全に含んでいる側であって、どんなに正確な感想や評論や情報でも、画面一枚でも離れてしまうと記憶のように断片化してしまって、まさにこの五感でもってそれ自体を感覚することには優らないものだなということを思った。
この作品はこれこれこういう絵で、こういう意味があって、こんな話が、物語が… ということはもちろんあるのだろうけど、それは作品が発している情報であって、その作品そのものの質量を説明はできない気がした。わざわざそんなふうに変換しなくても、それがそこにあるので、人がそこにいるように、作品がそこにあるということが感覚されて、やっぱりナマってこうだよなと思った。これはこういう味なんですよ、と脳に電極をさして情報を記憶化することと、自分でそれを食べて舌で感じることは違うと思った。
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ソーラーパネルの前に女の子が立っている絵が面白くて、写真みたいだなと思った。絵は自由に構図をとれるから、配置とか考える(てしまう)ものだと思うけど、三列あるソーラーパネルの左の列が、途中で切れてしまっていて、それが背景をあまり気にせずに撮った写真のようで、それでいて真ん中に立っている女の子は真ん中で、いいな〜と思った。
シャツの襟首が斜めになってしまっている女の子がネギの飛び出した袋を持って、空白の中に止まっている絵。
電灯の光が当たっているところだけ絵の具が塗られておらず、紙の地肌と鉛筆の線だけになっていて、そこが光っているように見える絵。
電車の中から窓越しに暗い風景を見るときのように、自分の顔が画面に映っている絵。
四角い紙と丸い紙に描かれた絵は、1つの絵が1つの漢字のようだった。
画面の中に線が見えるような感じがして、かきっと1文字が書道された色紙のようだなと思った。雨がふっている絵の線や、上の方に残った空白とか、見たことの無い文字がもっているような感覚の絵だった。
目が主題になっている絵。目は画面の中の女の子の目のように見えるが、その目はその作品を見ている自分の目を見ているのではなくて、その絵の中にいる女の子が見ているものを見ているんだなという感じがした。背後を振り返ってしまうような目だった。
色調がすごく不思議で、「この瞬間にこれ以上描くのをやめた」ということがすごくわかる感じに思えた。彫刻をやる人が、ある瞬間にそれ以上に刃をいれるのをやめるように、その色調がそこで面を作っていて、揺れ動くシーソーがある位置で停止するように、その色彩がそこで止まっていた。その目たちが見ている情景も、このように停止しているのだろうという感じがした。
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と、いうように、いくら自分があそこで感じたことを感想や文字に「変換」しようとも、あそこで感じたことそのものを完全には表現しないか、ねじ曲げてしまうだろう。とても素敵な体験をしたのだが、結局のところそれを伝えることはできないように思う。もしも伝えることが「できてしまう」なら、あそこにあった質量それそのものが、それ以外の何かに変換「できてしまう」なら、それは少し変なことだと思う。
もちろんその作品自体も、その作家自身の何かを完全に表現しているということではないんだろうけど、それでもその作品にもっとも近いその人自身がその手でその時を止めたということに匂ってくるようなものがあって、それはこの私が又聞きするように、このように感想を書いたりすることとは完全に次元が違う当事者の為したことであって、そういうことを感じられた。
あの空間や作品を説明した文章でも、あの空間や作品が保証する数字でも、あの空間や作品をiPhoneで撮った画像でもなく、あの空間にあるあの作品そのものをこの目と心に直接に感覚した、ということを、それ以外の行動や表現に変換することはできなくて、それがすごく、すばらしいことだなと感じ入った次第です。