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2013年10月20日日曜日

無料配布小冊子のプロトができた

これまで細々と制作を続けてきて、ある程度の目的意識のようなものは出来てきた。

・自分にとってのベストを尽くしたいように尽くせるライフワークにすること
・暗室文化の中身を開示し、その保全に少しでも貢献すること
・各人が独自の制作をもつことの楽しさややりがいについて興味を持ってもらうこと
・お金をかせぐこと

いきなりすべてを実現することは難しいので、ひとまず出来ることからチマチマやっていきたい。手始めに、デザインフェスタやその他の機会において無料で配布する制作についての小冊子をつくることにした。目次から作り始めたのだが、それぞれに肉付けしていくと膨大な量になってしまったため、印刷の事情的にキリのいいページ数に絞った。なんと60ページ!!

フォトショップ!でチマチマチマチマ作ったぞ

セブンイレブンのマルチコピー機でせこせこ量産するコピー誌だが、表紙は少し厚い紙にしてみたり、中とじで製本してみたりと、おお無料か…と思えるくらいの質感にはなるだろうと予想している。もちろん、それを回収するに足る効果を発するだけの役をこなしてくれないことにはたいへん切ないので、できるだけ丁寧にぬかりなくやりたい。

11月2日(土)3日(日)の両日おこなわれるデザフェスでは、1日100部くらいの配布を予定している。今回は#1となっているが、#2がまとめられるほどの情報を改めて積み上げるまでにはけっこうな時間がかかるはずなので、無くなってしまってもいずれまた機会があるごとに繰り返し配布していくことになるだろう。

表紙はこんなです。

ぜひぜひもらいに来てください(無くなっていたらゴメンナサイ)


2013年10月15日火曜日

ギエーとなるとき

プリントしていると、気持ちがギエー!となって、ウワー!となることもある。

思った通りにならないと、なんで??なんでこうなるんだ???という混乱が始まり、どこのどんな要素について思い違いをしているのかの患部探しに突入して、アーッ!!と集中がはじけてしぼんだ風船のようになってしまう。

でも少し時間をおいて他のことをやり、平静を取り戻してから落ち着いてもう一度違うアプローチで検証を繰り返すと、必ず良い方向に向かうことができる。

ひとまず発見したことは、薬液の劣化について。
希釈した後の薬液の劣化については、作ってから作業を開始して8時間経つごとに作り直すか、作業にキリをつけるようにして、ずっと注意をしていた。しかし希釈する前の、原液の段階での劣化については注意が及んでいなかった。

新品の原液を開封したら、100ccのボトルに空気が入らないように小分けをしたうえで冷蔵保管し、1本ずつ使っていくようにすれば大丈夫だろう。多分。

過去に行ったはずのテストと同じ条件を繰り返しても妙に結果がズレる原因を根気よくつぶしていけば、正確で再現性のあるレシピを蓄積できるようになるはずだ。

100種類のネガを100枚ずつ焼けば、多少は見えてくるものもあるだろう。
とにかく丁寧にやるだけだ。

それしかない。

2013年10月14日月曜日

展示にでかけた

「ただいまと言うことにした」という展示を見に行った。

新宿眼科画廊という名前はときどき見かける。眼科医の先生が持っている画廊なんだろうか。新宿東口から10分くらい歩いたところにあって、素直に表を歩いていけばよかったのだが、きょうは道路が歩行者天国になっていたせいで人がうじゃうじゃいてウッと思い、歌舞伎町の中を抜けていったところ「DVD、DVD」「DVD?」とたくさん声をかけられた。DVD。

眼科画廊の裏手に喫煙所があったので一休みした。自販機の裏に隠れ込むようにスペースが設けられていて、いいぞ、と思った。空き缶のゴミ箱のそば捨てられた食べかけのハンバーガーの包みに野良猫が頭をつっこんで食べていた。

画廊の奥に入ると涼しくて壁が真っ白になったスペースがあった。コンセントの差し込み口やスピーカーまで白く塗られていて、白い…と思った。

展示は5人の作家によるグループ展だった。展示というものに殆ど行ったことがなかったけど、今回は展示のタイトルにすごく惹かれたことと、普段から好きでよく見かける作家さんのものだったので出かけてみた。

現在はどんな作品もただちにデジタル情報になって世界中に拡散されるものだけど、実際に手が触れて形になったばかりの、形になったまま時間が止まってしまった物体としての、質量あるオリジナルを、この目で見るというのはすごく良いことだと思う。今すぐにでもこの作品に、鉛筆で、絵の具で、その他でもって、このかたちを変更してしまうことができる。完成したということにはなっているけれど、今すぐにでもそれを壊すこともできる。ここに飾ってあるものたちは、完成していながらも、完成していないことにもできる。それはそれが、ネットに流れている画像だとか、写真に撮った情報ではなくて、それが質量をもったそれそのものだからそうできるのであって、見ていると「この瞬間で描くのをやめたのだ」「時間が止まっている」ということがよくわかった。時間が止まった人間のようだった。あの作品そのものだけが持っている「終わっていなくもある」というすごさは、見てしまった、知ってしまった、違うものに変換してしまった、という終わってしまう側(私たちのように)にとっては、触れ得ないものだなと思った。

情報というのは奇妙なもので、誰かが「私はこういう人間です」とか「あれはああいうものです」「こうです」と言葉や文字としての情報で説明したとしても、結局はそれそのものの方が、説明しようとしたものや感じられるものをそもそも完全に含んでいる側であって、どんなに正確な感想や評論や情報でも、画面一枚でも離れてしまうと記憶のように断片化してしまって、まさにこの五感でもってそれ自体を感覚することには優らないものだなということを思った。

この作品はこれこれこういう絵で、こういう意味があって、こんな話が、物語が… ということはもちろんあるのだろうけど、それは作品が発している情報であって、その作品そのものの質量を説明はできない気がした。わざわざそんなふうに変換しなくても、それがそこにあるので、人がそこにいるように、作品がそこにあるということが感覚されて、やっぱりナマってこうだよなと思った。これはこういう味なんですよ、と脳に電極をさして情報を記憶化することと、自分でそれを食べて舌で感じることは違うと思った。

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ソーラーパネルの前に女の子が立っている絵が面白くて、写真みたいだなと思った。絵は自由に構図をとれるから、配置とか考える(てしまう)ものだと思うけど、三列あるソーラーパネルの左の列が、途中で切れてしまっていて、それが背景をあまり気にせずに撮った写真のようで、それでいて真ん中に立っている女の子は真ん中で、いいな〜と思った。

シャツの襟首が斜めになってしまっている女の子がネギの飛び出した袋を持って、空白の中に止まっている絵。

電灯の光が当たっているところだけ絵の具が塗られておらず、紙の地肌と鉛筆の線だけになっていて、そこが光っているように見える絵。

電車の中から窓越しに暗い風景を見るときのように、自分の顔が画面に映っている絵。

四角い紙と丸い紙に描かれた絵は、1つの絵が1つの漢字のようだった。
画面の中に線が見えるような感じがして、かきっと1文字が書道された色紙のようだなと思った。雨がふっている絵の線や、上の方に残った空白とか、見たことの無い文字がもっているような感覚の絵だった。

目が主題になっている絵。目は画面の中の女の子の目のように見えるが、その目はその作品を見ている自分の目を見ているのではなくて、その絵の中にいる女の子が見ているものを見ているんだなという感じがした。背後を振り返ってしまうような目だった。

色調がすごく不思議で、「この瞬間にこれ以上描くのをやめた」ということがすごくわかる感じに思えた。彫刻をやる人が、ある瞬間にそれ以上に刃をいれるのをやめるように、その色調がそこで面を作っていて、揺れ動くシーソーがある位置で停止するように、その色彩がそこで止まっていた。その目たちが見ている情景も、このように停止しているのだろうという感じがした。

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と、いうように、いくら自分があそこで感じたことを感想や文字に「変換」しようとも、あそこで感じたことそのものを完全には表現しないか、ねじ曲げてしまうだろう。とても素敵な体験をしたのだが、結局のところそれを伝えることはできないように思う。もしも伝えることが「できてしまう」なら、あそこにあった質量それそのものが、それ以外の何かに変換「できてしまう」なら、それは少し変なことだと思う。

もちろんその作品自体も、その作家自身の何かを完全に表現しているということではないんだろうけど、それでもその作品にもっとも近いその人自身がその手でその時を止めたということに匂ってくるようなものがあって、それはこの私が又聞きするように、このように感想を書いたりすることとは完全に次元が違う当事者の為したことであって、そういうことを感じられた。

あの空間や作品を説明した文章でも、あの空間や作品が保証する数字でも、あの空間や作品をiPhoneで撮った画像でもなく、あの空間にあるあの作品そのものをこの目と心に直接に感覚した、ということを、それ以外の行動や表現に変換することはできなくて、それがすごく、すばらしいことだなと感じ入った次第です。

2013年10月10日木曜日

雑記

・大全紙からF10号パネルへの仕上げは自分の中でほぼ手順ができた。

・大四切を無理やり四切バットで現像したら失敗した。大四切が沈むバット類を揃えるのももったいないしかさばるので、大全紙と同じような塩ビ管の筒を作った。ローリングさせるための台も新調した。木材は在庫が腐るほどあるので気楽だ。

・売り物にする写真ができたら品物の画像と値段をあらかじめ告知しておいた方がよいのでは?という意見をもらった。そうかもしれないと思うのでこのブログの記事に商品というカテゴリを作って記事にしようと思う。

・依頼があって市街の路上でゲリラ的に撮影をした。自分の作品として外に出すかは不明だけど、やっぱりカメラを使うのは面白い。すこし前からもろもろの事情から新しいカメラに乗り換えたいなと思っていたけど、改めてその必要性を感じた。ブロニカS2にはたくさんの思い出があるし当面はまだまだ活躍してもらうけど、夢としては同じブロニカのRF645を持てたらいいなあと思っている。

・昨年末にメンタルヘルスを起こして通院していたのだが、当時を彷彿させる不安感に苛まれる瞬間が増えてきた。あのときは全身が痙攣したり薬を飲まないと部屋から出られないくらい悪くしていたので全然マシなんだけど、多分ただの風邪だと思う。動悸と冷や汗がすごい。不安が多い。

2013年10月2日水曜日

看板の制作など

11月2日(土)と3日(日)に東京ビックサイトで催されるデザインフェスタ38への出展に向けて作品制作と諸々の準備を進めている。

これと同時進行している別件で、11月に上海で催されるアートフェアに作品を出してもらえることになっているのだが、それが終わって12月か1月あたりに1ヶ月間の個展を開いてもらえることにもなっている。

そういうイベントのときにわかりやすい(?)アイコンというか目印があるといいかなと思って、大全紙の仕上げと同じサイズのF10号パネルで看板を作ってみた。

下書き

絵の具の感覚を久しぶりに楽しむ


マスキングシートなるものを貸してもらったので試す

ワザが足りず、汚い結果に…

修正を重ねると、それなりになった

今後は大きな作品がメインになってゆく

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大全紙をパネルに仕上げる際に発生していたいくつかの問題はほぼ完全に解決できた。
当面の目標はロール紙という108cm幅が20m巻きになっている恐ろしい印画紙で、F60号(97cm*130cmくらい)のパネルを仕上げられるくらいのワザを身につけることだ。そこまでいくと子供用のベッドくらいの大きさになるので、実現することも大変だが、それに見合った大変なインパクトになるだろう。しかし、それも結局はハード側というか物質としての性質にすぎないので、仮に目標を達成したとしても、あくまでもプリンターとしての課題の域をこえない。どうして、なにを、どんなふうに撮るのかというもう片方の意識をおろそかにしていては、ただ大きいだけの物質でしかなくなるだろう。

はじめての個展を機に自分の制作についてひとまずの区切りをつけ、第一部完という気持ちでもう一度「撮る」ことを追いかけていけたらと思っている。これから撮っていきたいものは何となく心が決まっていて、きっとそれが実現するだろうと考えている。

撮影をする自分のワザと、プリントをする自分のワザの、その両方を一歩ずつ丁寧に進めていくことが、生涯を通しての目標になるような生き方をしたいと願っている。