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2014年4月19日土曜日

雑記

このごろ起こった出来事など。

・巨大招き猫のラッキーちゃんがやってきた。

戦後から商売で身を立ててきた祖父の家に眠っていた古い招き猫が、縁あってうちに引っ越してきた。

せっかくの縁起ものが埃まるけである

水拭きして磨いて

日干し

どうしてラッキーちゃんがうちに来たのかというと、その前日に、父と常滑(トコナメ)という焼き物が有名な土地に出かけたことがきっかけである。常滑は招き猫の名産地でもあって、茶香炉を探しに行ったのだけど、招き猫も面白かったので、いちばん小さなのを買って帰ったところ、それを見た父が(そういえばでっかいのが倉庫に…)と思い出して、祖父宅から持ってきた、というわけ。

招き猫には身体の色とか、右手か左手かによって招くものや除けるものが違うらしい。

茶香炉というのは、お茶の葉っぱを下から蝋燭で炙って、お茶の香りを楽しむための香炉。常滑が発祥の道具らしく、これで炙った茶葉は焙じたてのほうじ茶として二度楽しめるというスグレモノだ。

四角い茶香炉と、厄よけ&人まねきの招き猫

偶然だろうけど、ラッキーちゃんを磨いて乾かして玄関に置いた次の日、上海のときみたいに、海外に写真を展示できるかもしれないチャンスを告げる電話がきた。

今回は東京は上野で行われる予選を勝ち抜き、今後、中国・韓国で行われるアートフェアへの出場を賭けて、一般投票でその座を競い合うことになった。

美術に順列をつけるのはまったくナンセンスと言えなくもないけど、逆に順列が無いと考えることも同じくらい、何らかに対して失礼なのかもしれなくて、勝っても負けても、今まで避けてきた「そういうこと」を味わう機会としても活かせればいいのかな、という感じ。

・実家の環境を整備中。

東京・三鷹のシェアハウスを抜けて、愛知県の実家へ生活拠点を移した。
もろもろの事情はあるのだが、そのへんは省略する。
さすがに実家は自由度がマックスなので、むちゃくちゃやっている。

キャットウォークを制作。猫が喜んで登っている。

暗室は別室を改造する予定で、まだ設計している段階だけど、ついに、ついに、念願の、【全暗状態で使える蛇口と流し台が完備された暗室】が実現される予定。もう本当にこれがチョーーーーーーー欲しかった。


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さて、上野で行われる展示についてですが、5月7日あたりから、およそ1ヶ月の間、開催されます。そこでは、今までどこにも出していない、加藤が去年の夏に撮影した、東京時代の最後の作品を出す予定です。

気持ちの問題がいろいろ進展して、今はすごく元気だから、正面から向き合うことができなかったアレコレに、改めて取り組むことができそうな予感がしている。

正直、まだ現像すらしていないので、どんなものが出てくるのか、自分でもわからん。
ただ、それで勝負する、と決めたので、やるだけ。

ちなみに、今回はF10号パネルで出します!

詳細はそのうち。

2014年4月10日木曜日

球体について、など。

球体。

wikipediaを読んでみると「ある一定点から一定の距離にある点の集合である球面とその内部にある点からなる集合」と表現されている。

球とか、円には、どうやらたいへんな秘密があるらしい。
ということを、大昔から、たくさんの、あらゆる分野の人々が考え続けている。

西暦1986年に生まれてこのかた触れてきたほんの僅かな知識においてでさえ、
【○】は折に触れてその神秘をちらつかせてくる。

曰く、神とは「円」である。
曰く、宇宙とは「球体」である。
曰く、人間とは、男女とは「半分に割れた球」である。

etc....etc........

そして「無」についても、そこにたいへんな命題があるらしいということを感じ取っており、円や球と同じように膨大な研究がなされているようだ。

曰く、なぜ「何も無い」ではなく「何かがある」のか?
曰く、宇宙の 法則が 乱れる!
曰く、ゼロ

自分も、これらの不思議について考えを巡らし、その謎を解こうとあの手この手でトライとエラーを繰り返す、歴史の末席に加わりたいという希望が芽生えてきた。

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wait and see という音楽を聴いていて、ふと思った。
たしか、この言葉は「静観する」という意味で、子育ての用語にもよく言われている。
ただ、見る。ただ、見て、それを破壊しない。

おそらく、それは「切断しない」という意味だと思う。
切断については以前書いたけど、簡潔に書く。
表現したり、想像したり、あちらからこちらへ持ってくること。
ある何かを、過去と未来を発生させる「今」でもって切断する(してしまう)こと。

写真という表現手段を主に感じ考えている自分だけれども、やはり眼というか、視覚でもって出力する表現形態なものだから、「見る」って何だ?「視る」ってどういうことだ?ということを、ほんとうに性懲りもなく百万回も考え直す。

写真現象と、"wait and see"を照らし合わせるとき、そこに何が考えられるだろう。

・「ただ見る」ことは「カメラを向ける」ことと違うのか?
・「ただ見る」ことと「シャッターを切る」ことは、対極にあるのか?
・あるいは、写真現象の中に「ただ見る」と「切る」が同居しているのか?
・なぜ、人は「見る」のか?
・眼ってなんだ?
・眼は「なに」を見ている?
・心は「なに」を感じている?
・脳は「なに」を考えている?
・俺ってなに?っていうか、だれ?
・なぜ、生まれてきた?なんで生きている?
・なぜ、誰もいなかったのではなく、俺が居る?
・なぜ、居ると感じる?
・なぜ、居るということについて考える?
・なぜ、上記のようなことを、こうしてキーボードで打つ?

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「ただいまと言うことにした」という展示を見に行ったときに強く思ったこと。
時間が停止している感覚について。

彫刻について。
彫刻は、あるものから、ある形を取り出している。
と、同時に、ある形を取り出すために、ある形以外のすべてを取り除いている。
そのある形をかたちづくる点・線・面は、なぜ、その点や線や面をとったのか。
なぜ、そこで、「彫ることをやめた」のか?

彫刻と写真について。
彫刻に感じる「今」とは「それ以上に彫ることをやめた瞬間」である。
その「今」が、彫り残した本体と、彫り去ったゴミに挟まれている。
カメラが切ったシャッターとは「今」である。
その「今」が、ネガである。ネガは、過去と未来を切断している証拠である。
鏡写しになった、オモテと、ウラ。黒と白。そのネガ。
凸凹が反対になった、彫刻と、その彫刻のために発生した、ゴミ。過去。
浮かび上がっている「今」の共通点。
停止した時間。

・なぜそこで彫ることをやめたのか説明できない彫刻
・なぜそこで描くことをやめたのか説明できない絵画
・なぜそこで切ることを決めたのか説明できない写真

etc....etc........

そこには、球体が、円が、点が、隠れているように思えてならない。

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思うところはたくさんあるんだけど、夢からさめたように、書こうとすると消えてしまう。
鍵を探しに行くと、扉が消えてしまう。
どうしたらいいのかわからない。
どうしたらいいのか永遠に考え続ける。
考え続ける中で、無限の方法の中から可能な限り多くの実験を繰り返す。
死ぬまで絶対にやめない。

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パスカル「宇宙は中心がいたるところにあって、どこにも周辺のない、ひとつの無限の球体である」

ヘルメス「中心がいたるところにあって周辺がどこにもない円を神と呼んでいる」

三島由紀夫「個性を超克するところにのみ生まれる本当の美の領域では虚栄心はほとんど意味をなさない。そこではただ献身だけが必要で、この美徳は芸術家と母性との共通点だ」

レオナルドダヴィンチ「すべてはすべてから来る。すべてはすべてから創られ、すべてはすべてに戻っていく。すべては、すべてに包み込まれる」

ウィトゲンシュタイン「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」


※以前、手帳にメモった内容なので、間違っているかもしれない。