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2014年5月31日土曜日

雑記

・パソコンが破滅した。iMacの2008年モデルなんだけど、だいぶ前に内蔵のHDDが破損したときなんとか外付けHDにOSをインストールして、以降はそこから起動するようにして誤魔化していた。しかし、ついに本体側のビデオカードだかロジックボードだか何とかがいかれてしまい、画面がシマシマになってしまった。どうやら修理するとたいへんな値段になるみたいだし、パソコンも消耗品なのだなあと、幾度めかの実感をしたのであった。

・ここのところ、毎日プリントしている。たまに気分が落ち込んでグッタリしているときもあるけど、総合的には前向きに暗室に取り組めている。

・精神的な調子がはずんでいるときは「できない」ということが改善の余地そのものに思えて、もっとやろう、もっと練習したり研究したい!という気持ちのもとになってくれる。テンションが低くなってくると、とにかく何かにどこかに届かせることだけが目的になって、まだいけるところに目をつむるような働きが強くなってくるように思う。

・とはいえ、見切った!とか、理解した!と思った直後かしばらくしたくらいのころに、それは勘違いというか、そう思った、そういう感想をその時は真剣に抱いた、ということに過ぎないことがわかって、また振り出しに戻る。ヨッシャ!と思うと、とたんに振り出しに戻る・・・

その繰り返し自体を、好ましく思えるときと思えないときがあるんだなということを、性懲りも無く何度も何度も繰り返し続けてきている。進歩がないのか!?と思うけど、そもそも進歩って何なの?というところに焦点を当てても、結局それも、⚪︎⚪︎が××したら、という身勝手な印象とか理想を追いかけているだけであって、げに「良さ」というのはことごとく夢幻のようなものだなあと思ったりもする。

・自家中毒がお家芸みたいになるとみっともないなぁと思う。誰かに褒められたいみたいなところに傾くのも怖いと思う。何のために?というのを「良さ」のために、と言い切るのも逃げている感じがして居心地が悪い

・生きている実感がある、とわざわざ確認しないようになれたらいいな〜。

2014年5月24日土曜日

くるくるパー

たまに、自信というものについて人と話し合う機会がある。

自信があるときと無いときの差が激しくて自分自身の生き方のパフォーマンスにムラが出てしまうだとか、生まれてこのかた自信をもてたことなどないし、根拠の無い自信をもっている人間を憎んですらいるだとか、そんなことをあーでもないこーでもないと話し合う。

自信は、生きていくうえでたいへん大切か、またはまったく役に立たないかというところに集約して、大まかな結論としては、だいたい2通りに分かれることが多いように思う。

それはつまり「生きよう」もしくは「死のう」という方針だ。
白か黒か。

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いろいろあって自分は一回死んだと思っている。

それはつい先日のことで、この自我はそのときドカンと爆発して急激に冷却され、今はふたたび平常に活動を続けているのだが、そのことを振り返って考えるとき、それまでと変わっていないことと、変わってしまったこととがあるように思える。その項目はたくさんあるので、いま書きたいと思っている点にスポットを当てたいが、関係ないようなことも交えて気分の向かうままに書きたい。

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・濃い影と薄い影

以前から、誰かと会って話したり、一緒に仕事をしたり、たまたま同じ電車の車両に乗り合わせていくつかの駅を通過したり、交差点ですれ違ったりするとき、人の影の濃さというか、存在している感じが強い人がまばらに見つかる。ような気がする。

ある人が、鉛筆でデッサンを描くとき「影」の描き方についてあることを発見し、それから上手に「影」を描き表すことができるようになったが、その代わり、巨大なビルが作り出す巨大な影に対して恐怖を感じるようになった、という話をしていたのを見かけた。

その「影についてのあること」というのは、影は「穴」であるという考え方だそうだ。
その話を見かけたとき、以前から感じていた、存在感を強く発している人物というものについて、符合するものを感じた。

光が何かにぶつかって、何かが光を「遮っ」て、その結果として穴が空いてしまったエリアを影とするならば、その「穴」に、深さというか、不透明感の違いを見ているような気がした。

より黒く、より深い「穴」をつくりだす、存在という「障害物」の透明度が低ければ低いほど、ふりそそぐ光をより遮れば遮るほどに、穴は黒く深くなる。

これは暗室での引き伸ばし作業についての印象と完全に一致する。
ネガを通り抜ける光、その光を受け取った分だけ黒く焼けこげる印画紙。

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・透明度の低い障害物

透明度というのは、光をどのくらい通すのか、どのくらい光に「通過されてしまうのか」というイメージで、光、というよりは「自分以外のすべて」と言い換えた方が良い気がする。

外部の世界(光)と、よりリンクしていて、より呼吸していて、より「光」を吸い込み、より何かを「遮って」いる存在というのは、光が通過しない。ふりそそぐ光を食っていて、取り込んだ光を消化し、その光を違うエネルギーに変換して、それを排泄している。それに光が当たった結果、黒く深い穴ができる。

外部の世界(光)と、ほとんどリンクしておらず、ほとんど呼吸をしないで、排泄とかエネルギーの交換をしていない存在というのは、光が通過する。それに光が当たった結果、透明な影ができる。

それに善悪があるわけではなくて、ただ、かたちと諧調と濃淡とが無機質に現れているだけだ。

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「少しも露光していない透明なネガ」が真っ黒な印画紙を生み、「完全に感光しきった真っ黒なネガ」が真っ白な印画紙を生むように、これは極端と極端を観察している状態に過ぎない。

人間をある状態のネガに例えること自体はただの夢想の域を出ないのだが、少なくとも、実際の写真においては、そのネガの中に、何が、どのようなかたちや諧調や濃淡をもって宿っているのかを、「真っ白と真っ黒」のはざまで、膝を突き合わせて観察する。

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自分のうしろに、または頭上に光があって、その光は自分を貫通し、その影が自分の前方に、または地面に影を落としている。

その影の姿は、自分の写真だ。

自分の心は、ネガという反転した存在であって、ポジとしての現実がつまり「自分以外の
すべて」であるなら、ネガという心は「すべて以外の自分」だ。

まず光があり「その下で」何もかもは完全に鏡映しになっている。

光と影が直接にあるのではなくて、まず光があり「その下で」ネガとポジが完全に反応している。

その光というのは、たぶん命のことだと思う。

そしてその光は無数に散在しているのではなくて、ひとつの太陽と無数の星々との関係のように、思い切り言ってしまえば、命はひとつしかないのだと思う。

「自分」は、その光の下で、ネガとそれを通り抜けた像を現している。

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「生まれたら死ぬ」ということを「死を生んでいる」と誤解することをやめるべきだ。
それは真っ黒な、または真っ白な印画紙であり、なにも写っていないことに等しい。

「何かが写っている」ということに、注意を払わなくてはならない。

2014年5月17日土曜日

プリントにかかるお金とその節約について

写真と暗室技術について発信するという名目で書いているこのブログだけど、いつも抽象的なことばかりで具体的なことを書かないので、今回は役に立つ(?)ことを書きたい。

まず、暗室は、けっこうお金がかかる。
つい先日、富士フイルムが暗室関連用品の価格を全面的に【3割増】するという衝撃的なニュースを聞いて絶望したものだが、それだけもうニッチな産業になってきてしまったということだ。

別にどんな趣味でも生業でも、かけようとすればかかるし、かからないようにすればかからないわけだから、やり方の問題なんだけど、ちょっとした工夫で出費を抑える効果が出て、なおかつプラスαの効果が出たらサイコー!だと思うので、この暗室で実際に行われているプチ財テクを紹介します。

(そもそも暗室の競技人口が少ないので、他の人には役に立たないのだが…)

そもそも、暗室にかかるお金とはなにか?というところまで細かく遡ると大変なので、ひとまずプリントするたびに減っていくもの、消耗品について。今回は特に【紙】を節約するツールに絞って紹介したい。

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プリント(引き伸ばし)とは、ざっくり言うと、ネガというオリジナル情報を「どのくらいのサイズで、どのくらいのコントラストで、どのくらいの濃さで」印画紙に焼き込むのか?ということだ。テストプリント、とひとくちに言っても、さまざまなテストがある。

暗室の世界では、コントラストは「号」という単位で判別される。

※コンピュータ上でいじくったコントラストなので実際とは少し違う

もうずっと昔には、このコントラストの違いを、コントラストが「低く焼ける紙と高く焼ける紙」を別々に用意して、適切なコントラストで焼ける紙はどれなのか?というテストをしていたらしい。これを「号数紙」というが、現在では圧倒的に数が少なくなった。

それでは不便だし金がかかってしょうがないということで、1枚の紙の上で自由にコントラストを変えることが出来る紙が発明される。それがバリグレードとかマルチグレードとか呼ばれる、現在主流になっている紙だ。

これは引き伸ばし機のレンズの下に色の違うフィルターを挟んで光の色を変化させるもので、マルチグレードの印画紙の場合は、反応しやすい色が異なる複数の薬品が何層かに分かれて塗布されている、みたいな仕組みになっている。

当時はこの画期的な紙について、保守的な勢力は「号数紙の方が諧調が豊かだ!」とか「こんな紙でまともなプリントができるものか」などと散々に叩いたらしいが、時代の移り変わりとともに、金のかからない便利なものが残っていったようである。

そして、次第に「ネガの要らない、プリントの必要すら無い」時代へと移行してゆく。

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ということで、号数を変えるためにはフィルターを変えるわけだが、その次は「どのくらい焼くのか」というテストがある。

印画紙は一般に、長時間光を当てれば当てるほどに、現像したときに色が濃く出るので、ちょうどいいところで光を当てるのをやめなければいけない。

その焼き具合を見るのに「ストライプテスト」というものを行うことがある。
専用の道具もあるにはあるが、いかんせん、高い。かといって手作業でこれを行うと、段差がまちまちになったりして気分が良くない。

作ってしまえ!ということで、印画紙の空き箱でストライプテスターを作ってみる。

ストライプくん1号

大カビネ(ハガキくらい)のサイズ

ジェンガのブロックを使用している

ジェンガを敷き詰めるとこうなる

1つ取り除いた状態で「1段目」を焼き込む

2つ目3つ目、とズラしながら、違う焼き時間で焼き込む

すると、こういう「同じ号数で8段」の時間差プリントができあがる
※もちろん、同じ焼き時間で号数違いのテストもできる

きわめて贅沢に、この1段1段を、紙の全領域を使ってバンバン焼いては現像して…という方が、より広い範囲のネガ情報を確認できるわけなんだけど、そんな金はない!

ので、これでだいたいの秒数を探ったら、次はもう少し大きな紙と大きな領域を使って、もうちょっとだけ贅沢に、より探る範囲を狭めてテストプリントをする。

ストライプくん2号(六切用)

うしろから指で押して紙を外すための穴が空いている

こんな感じにビラビラしている(5段)

暗くても見えるように、ツマミは白い紙でできている

ズラして焼いて、ズラして焼いて

こんな感じに「5段」焼ける。5枚焼くより安い!


結局のところ、なぜこのようなテストが必要なのか?というと、修行が足りないからなのである。もし神業的なイカレプリンターがいたら、ネガをちょっと光に透かして眺めただけで「うーん、3号で8.3秒…で、さらに4号半で2.7秒、黒を沈めましょう」と言い当てるのだろうが、残念ながら今はその境地に近づこうとすることしかできない。

もちろん、今は「ボタン一発」で、それが実現するのだが、果たしてそれは「実現」なのか?というところにいくと話がブッ飛ぶので割愛する。

巧くなればなるほどに、テストプリントの数は少なくなる。というと語弊があるが、より良いプリントの追求に必要なテストの、何をどうテストしようとしているのか?という宝探しの、広大な土地を掘り返す範囲をより狭くしたぶんだけ、より深く掘り返す時間とお金とが生まれることは間違いない。

ネガの性格、暗室の性格、そして何より、プリンターの性格によるものが大きいが、テストプリントには、本番の作品と同じくらい、たくさんのおもしろい個性が潜んでいるものだ。

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【おまけ】すべてのネガにつけてる手書きのプリント記録



2014年5月15日木曜日

暗室との戦い 1・2・3

”ネガは楽譜、プリントはそれを演奏するようなもの”
という、暗室の世界で非常に有名な一節があるが、個人的には、撮影(ネガ作り)は記憶することで、プリントは思い出すようなものだと感じる。

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撮影(ネガ作り)は、たった一度しか訪れない時間とたった一度だけ切り結ぶようなものだから、常に緊張感があって、気分が高揚する。今のは完全にキマッた!!というシャッターが切れると、スカッと突き抜ける快感がある。撮り切った!という瞬発的なキリのつき方が速い。

一方、暗室作業は、繰り返し繰り返し同じことをやり続ける性質が強い。気持ちが落ち着いていないと、自分が求めているものと実際に出来上がったプリントの違いに対して冷静に判断を下すことができない。黒ともっと濃い黒の、白ともっと明るい白の、さっきと今の、今とこの次の、その差を見極める眼の力の勝負で、ここで終わりというキリが存在しない。

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完全に同一の「演奏」が出来ないように、厳密に見れば二度と同じプリントはできない。
現に、過去につくったレシピを再現しようとしても、なぜか微妙に結果が変わる。
それは季節による気温や気圧の差、薬品の原液のボトルを開封してからどれだけ時間が経っているか、それを希釈してからどのくらいの時間が経っているか、希釈液の温度、バットを揺らす強さ、引き伸ばし機が接続されている電源の電圧の揺らぎ、などなど、挙げられる理由を数えればキリがない。

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暗室技術を身につけるのは相当に面倒だ。
これは自分の無精な性格によるものなんだけど、実際にプリントができる道具を一揃い用意してから、コンスタントに「やる気」が出るまでには相当な時間がかかった。一年以上かかったと思う。

生涯初のプリントを手取り足取りで教えてもらったときには「スッゲー!!」という興奮があって、いざ自分のネガで「修練」の時期に入ると、たちまちプスプスと煙が出てきて、完全に意気消沈し、こんなのできるわけないという暗黒期に突入した。

時は過ぎ、春のデザインフェスタへの出場が決まって、あと100日のあいだにブツを用意しないと話にならない!という段階になって初めて、地味なうえに練達が進みにくいプリント作業に対して肚をくくることができた。

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その100日のあいだに暗室と暗室に対してネガティブだった自分の心と向き合ってみて、最初に発見したことは、気持ちが揺れているとプリントも揺れるということ。

仕上がりが揺れるというのは、プリントに対して、それがどういうプリントなのか、自分で分からなくなるような状態だ。

良いのか?悪いのか?さっきより良いか?さっきより悪いか?
そもそもどこへ、どんな仕上がりのイメージに向かって、なにを改良しているのか?
その改良の仕方は、ほんとうに改良なのか?改悪なのか?
白いのか黒いのか?

ネガはひとつなのに、それをどんなプリントにするかには、ほとんど無限の選択肢がある。
(ネガ作りもそうだけど、ネガ現像はたった一度しかできない。)

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春のデザインフェスタを終えて、それなりにプリントができるようになってくると、次は秋のデザインフェスタにも出られることになり、大全紙のプリントにも挑戦するようになった。

暗室との格闘も二期目になってくると、撮影(ネガ作り)とプリントは実は似ているのではないか?と思えるようになってきた。

暗室は、大きな大きなカメラのようなもので、その中に自分が入っていて、ネガという現実を何度も印画紙を使って「撮影」しているのではないか?という感じがしてきた。

もしも時間を巻き戻すことができるなら、たった一度しかできないはずのネガの現像を何度もやり直すことができるなら、おそらくプリント作業と同じような「キリのなさ」に呆然とするに違いない。

それは逆の感じ方というか、一段遡った捉え方というか、ネガという一点からプリントが無限に枝分かれしていくという捉え方から、そもそもネガ自体が無限の可能性から選ばれている一点であって、強制的に一回で決まってしまうか、どこへ決めるのか今から吟味するかの違いでしかないということに気がついた。

これはつまりデジカメでいうとRAWデータを何度も現像することなんだけど、デジタル一眼についてまったく知らない状態でクラシックカメラに突入したものだから、その時までは想像もつかなかった。

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またまた時は過ぎ、東京での暮らしをリタイアして田舎の実家に生活拠点をうつし、暗室のパワーアップに着手し、今は暗室との格闘が第三期となった。

春のデザインフェスタは残念ながら抽選にもれてしまったので、今期は「せかオム」の一員としての名義では活動がない。

まったく情けないことに諸々の個人的なダメさから果たすことができていなかった写真やプリントがらみの約束を、ひとつずつ追いかけている。

ちかごろは、心が揺れているとプリントも揺れるのは、プリントが心の状態についてこれていない状態だったから、そうなっていたのかもしれない、と思えてきた。

プリントが安定してくると、気持ちも安定する。
これまでに蓄積したデータと数字、プリントの良し悪しについて自分なりに考えてきた根拠のようなものが、半自動的に、定めるべき一点をおぼろげに指し示してくれて、たとえ気持ちがザワザワしていても、そこに向かって仕上がりが集中するようになってきた。

もちろん、その「点」が、まったくおかしな座標を向いていないとも限らないのだけど、なにせこれから仕上げるものの可能性は無限にあるわけだから、なにかに頼らないとどこへも行けない。

なんだかんだで、暗室との、暗室技術に対する自分自身との戦い方が、多少は固まってきているのかなぁということを思っている。

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2014年5月12日月曜日

自分を占う

十代の頃は、桜が咲く頃から散る頃までにいつも悪いことが起こっていた。

予防接種をしたのかよくわからない水疱瘡にかかって身体中かさぶたまみれになったり、高校の入学式の前日に腹膜炎寸前の盲腸で担ぎ込まれたり、交通事故で右脚をへし折ったり、大阪に引っ越すための部屋の契約をしたその日に振られたり、だいたい1年おきに起こっていたマズいことは、つまり「アンラッキー」であると当時は体験や記憶を処理していて、どこか遠いところから飛んできた鳥にひっかけられたウンコのようなものだと思っていた。

ところが、成人して、上京して映画制作会社に就職したときから何かが変わってきた。
自分の世間知らずが露呈して恥ずかしい思いをしたり、業務上のシビアな問題に具体的な悪影響を及ぼしたり、はげしい叱責を体験したりなど、これまで「アンラッキー」で済ませてきたことが突然に自己責任のもとに逆襲し始めてきた。桜のジンクスなんてお話にもならないと、その時思い知った。

ここから自分の人生の第一部が始まったように思う。
「加藤袋」という名前ができて、人生をそのキャラクターに任せるようになった。それから六年が経って、その間にハチャメチャにいろんなことがあって、東京を離れて実家に帰ってきた。たった六年ではあるけれど、言ってみればそれは自分が「加藤袋」に変身してからの年月であった。

東京にいたころ、自分が最も恐れていたことは「実家に帰ること」だった。実家に帰ることになるくらいなら死ぬとまで思っていた。そのせいで自分の精神的・身体的な状況を追いつめることになったのだが、実際のところ、自分が恐れていたのは実家に帰ることというよりは、自分が「加藤袋」でいられなくなることに恐怖していたということが、終わってみて理解できた。

他人から見ればどうでもいいことだ。

実際、誰にも、それを見分けることも品評することもできない。あくまでも個人的な問題だ。しかし、誰もがその個人的な問題と折り合いをつけるために日々を生きている。

自分はこの自分自身のことを、他人に「どうでもよくない」と感じてほしいと願い祈ることがきわめて多かったように思う。そのために、異様に必死になって「個人的」でいようと努めた。もしも誰かがこの自分のことを「どうでもよくない」と感じれくれたとき、または自分の知る知らないに関わらず、どこかで誰かがそう感じてくれたとき、この自分が個人的でなかったらいけないと真剣に思っていた。

だからこそ、自分と自分が演じる作り出す自分の影のかたちに執着していたのだが、その「加藤袋」というカードがもたらす恩恵と天罰、言うなれば正位置と逆位置についてはほとんど無関心だった気がする。無神経ですらあった。

それから今になって、自分自身で作り上げた自分自身の影にある一定の距離を置くことが出来る環境になってみて思うことは、このカードをできるだけ正しい位置に置き続けなくてはならないということだ。

それが具体的にどういうことを意味していて、実際にどうなるのかは未来のことなのでわからないのだが、想像している。

時間が流れている。