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2014年8月14日木曜日

森山オナ太郎の奇妙な冒険

作ろうとして作ったものと、作ろうとしないで作られたものについて。

自分で自分に名前をつけて、自分で自分の作りたいものを決めて、自分で自分の作ったものに何かを与えたり、逆に何か得たりすることについて。

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このごろ、まったくやる気がない。
実家に帰ってきてから、ホームセンターでバイトをしながら、やる気のあるときと無いときを行き来しつつ、毎日をボンヤリとやり過ごしている。

なぜ自分は地元を離れたかったのかとか、地元を離れて何を感じていたのかとか、いざ帰ってきてみて何を思うのかとか、そういうことをグルグルしている内に、ジワジワと気がついてきたことがあって、それをどう受け止めるか、またはどう逃げ仰せたり覆い隠すのかとか、そういうことに腐心したり、逆に満足したりして、変にボンヤリしている。

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上京してしばらく、自分の作品を拙いなりに自分なりの考えでやってきた中で、明確に自認して言えたことがひとつだけあって、それは、画面の中に浮かび上がる要素のすべてをチリひとつ見逃さず、存外の要素の一切を許さず、そこにあるべきものを完全に自分自身で掌握して、そして支配するべきであるという考え、もっといえば信仰だった。

「そこに写ることを許したもの以外が写ることの一切を許さない」ということ。
「それがこの世に出てくることをあらかじめ許諾する」ということ。

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自分は、三兄弟の末っ子として育ったのだが、14歳のとき、急に弟が生まれた。
そのとき両親は四十代の後半にさしかかっており、明らかに危険な妊娠だったという。

これは後から、というより最近になって判明したことだが、自分を含む四兄弟は、全員がいわゆる「できちゃった」ものであり、計画もクソもない、何の意図もない自然の産物であったそうだ。

今にして思えば、弟ができたとき、そういうことをうすうす感づいてはいたのだけど、それを良いとか悪いとかで考えるには、自分はまだ幼すぎて、なかば自分自身の出自をも肯定できるように、自分たちのことを、ある方向性を持って自認していたように思える。

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最近、うれしいことがある。
それは、東京の人に「帰ってこい」と言われることだ。

こういう事態になって初めて思ったことだが、こういう嬉しい気持ちだとか有り難さとかいうものは、俺が自分で「制作」したものではないということだ。

自分は東京で、必死こいて「作ろうとするものだけを作ろうとした」つもりでいたけれど、結局のところ、この心を歓ばせていたものは何かというと、この手で直接に生み出したものではなくて、そこから自然に育っていったものだということだ。

制作を通じて知り合った人たち、一緒に暮らしてきた人たち、自分や、自分の手で生んだものを好いてくれる人たち、嫌ってくれる人たち。

みんな俺のコントロールの外にあるものばかりで、それらは何ひとつ、俺の意思を汲んだりはしてくれないし、何より「汲まずにして」そこに在ってくれる。

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自分が作ってきたものは、とても冷たいと思う。
自分のコピー、この心の鏡像、この自分の何かしら。
それらは自分の死体、愛すべき自分の死体だと思った。

果たして、自分はなにを殺してきたんだろう、なにを殺したかったんだろう、そういうことをボンヤリと、逃げ隠れしながら思っている。

2014年8月5日火曜日

カメラがぶっ壊れた話、など

カメラが壊れた。シャッターおりない。
カメラがいつ壊れたのかは見当がついているのだが、ちょっと不思議なことがあった。

愛知の実家に戻ってから、名古屋でもモデルさんが見つかった。わざわざ実家に来てもらったのだが、いろいろ準備をしている合間に、使っているカメラがどういう動きをするのかとか雑談がてら説明していたときには、ガシャコンガシャコン動いていたので、カメラは正常だった。それから暗幕も照明もカメラもセットして、あとはレリーズを押し込むだけで写るという段階まで持ってきて、そこでダメになってしまった。ダメになってしまったのはカメラの方ではなく、自分の方だったのだが。

どうしても最初のシャッターが切れなくて、ポーズも良く見えないし、光も良く見えないし、何より「ここで切っても気持ちよくない気がする」という雰囲気が加速度的に重たくなってきて、結局はただの一度も指を押し込むことなく、撮影自体をあきらめてしまった。

もうひとつ、撮影とは別にやろうとしていた制作も、とても首尾よくとは言えない結果におわり、失意と無念に沈んだ。

おそらくこのとき、既にカメラは壊れていて、もし半端な気持ちで、とにかく何でもいいから写ってくれや!と思って撮ろうとしても、たぶん物理的にできなかったんだろうと思う。

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それからほんのしばらくして、違う方法で改めてやってみようと、ブツを撮るためにカメラを用意したら、シャッターがおりなくなっていた。ウンともスンともいわない。ダイヤルの類いがカチコチになっていてどうにもならなかった。

症状を調べてみたところ、内部のネジの一部がすり減って機構の一部が連動しなくなっているような状態になっているらしかった。ゼンザブロニカは大変に古く、ヘンなカメラなのだが、今でも修理してくれるメーカーがあるので、そこまで心配はない。

しかし、修理するよりも、もう一度ほかの個体を買い直した方があきらかに安く済むし、またはこれを機にブロニカS2を卒業して、ついにRF645に乗り換える時か、といろいろ思案した。

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昔、大きな事故をやって、大事にしてたバイクを廃車にしたことがある。直すにしても新車を買い直す方が安かったので、そのまま潰してしまったのだった。

地元に戻ってからというもの、忘れていた古いことをたくさん思い出すようになった。
東京での生活、制作をする自分になる以前のことだとか、人とか記憶とか感覚だ。

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壊れたカメラは、直せるときに直すことにしようと決めた。
新しいカメラもおそらく必要ない。

昔、自分はカメラマンではないと思う、というようなことを書いたのだが、地元にいて、昔の自分と再会していると、もう少し違うことを思うようになってきた。

もともと、自分はクラフターみたいなもんだと思う。カメラを手にするまでも、してからも、たぶんずっとそうだった気がする。写すべきものの前にカメラを「持っていく」のは嫌いだったし、レンズの前に、写るべきものを切って貼って組み立てて「持ってくる」のが好きで、カメラはそれを見ているだけの方がいいのだった。

微妙にふっ切れたのもあって、今までと違う場所で、やり方で、気持ちで、ちょっとだけ違うことをやり始めているこのごろであった。