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2014年3月31日月曜日

冷たくて、静かな・・・

言葉で数字を言い表すことを、命数法というらしい。
10000 = いちまん、といった具合だ。

先の記事で「虚空」について少し触れたが、「虚空」とは小数の位を表す言葉でもある。
「虚空」とは、どのくらい小さな数字なのだろうか。
まず、10の-1乗=分(ぶ)とのことなので…


10の…
-1乗 分(ぶ)
-2乗 厘(りん)
-3乗 毛(もう)


といった具合に、0.1倍していくと…


糸(し)
忽(こつ)
微(び)
繊(せん)
沙(しゃ)
塵(じん)
埃(あい)
渺(びょう)
漠(ばく)
模糊(もこ)
逡巡(しゅんじゅん)
須臾(しゅゆ)
瞬息(しゅんそく)
弾指(だんし)
刹那(せつな)
六徳(りっとく)


ときて、

-20乗 虚空(こくう)
-21乗 清浄(せいじょう)
-22乗 阿頼耶(あらや)
-23乗 阿摩羅(あまら)


と続き、最後に…


涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)


で、言葉で言い表せることになっている少数の命数はおわり。
「ねはんじゃくじょう」なんて初めて聞いたのだが、すごくしっくりきた。

涅槃。そこは、寂しくて、静かなところなのだろう。
安らかなる場所があるのなら、それはきっと、冷たくて静かな、風のない湖の水面のような、鏡に映った虚像のような、きっとそんな、どこにもないような場所なんだろうなぁ、と、ずっとずっと想い描いてきたから。

オリジナルタロットと並行か、タロットの次にやりたい制作を定めた。
命数法シリーズだ。

過去でも未来でもないところは、一瞬よりももっと小さく、薄く、存在感をなくすはずだ。
感じ取れるということ自体が、感じ「取れてしまう」ことを示し続けるからだ。
空気に。虚空に。無になる。それが今になるということだ。
「今」は限りなくゼロに近づく。

考えるな、感じろ。
感じるな、停止しろ。
停止するな、透明になれ。

シャッタースピードの限界に挑みたい。
数千分の1シャッターよりも、もっと、もっと速い、地球でいちばん速いシャッタースピードをどうにかして追求して、同時に、その狂ったスピードに見合うだけの、適正露出になる、想像もつかぬほどにとてつもない光量、まぶしさの限界を追求する。

光速シャッターだけでは追いつかないだろうから、激烈に感度の低いフィルムを自作する。
おそらくピンホールカメラか、カメラオブスキュラの装置にまで遡ることになるだろう。
宇宙を旅行して、太陽を至近距離で撮影するくらいの、現実を抜きさるほどのスピードに近づく。

その限界が【もう無い】という【たった今】の最上級の最高峰が、涅槃寂静なのだろう。
そこよりも先には、言葉は、無い。論理も理屈も物理も関係ない。
ただ、不思議なだけ。

ずっとずっと、探し求めてた「冷たくて静かな場所」は、そこにあるだろう。
そして、これはカメラにしかできない。ほかでは絶対に実現できない制作表現だ。
「無」を撮影する。「虚空」を表現する。カメラには、それができる。

しかし、そこへ辿り着くことはできない。それは真理だから。
物理的な生命に縛られ続けているこの肉体に、それは表現できないだろう。
しかし、表現「しようとし続け」たい。
一生を賭けて、限界まで消滅してみたい。

仮に、世界最強のフラッシュに埋め尽くされた空間で、世界最低の感度と、世界最速のシャッターという三角形を組み合わせたとき、その中心で、時間は停止するのではないか?

そこに写っているべきものが何なのか、まだ知らない。
でも、そこに「人間」がいてほしいと思う。

夢とか現実とか

※下書きに放置されていたものを放出します。

未来は世の中がこんな風になるだとか、近い将来にこんな新しいことが起こるといった話題は、ずっと昔から絶え間なく続いて終わることがない。
そうした話題にときどき出てくる「夢を録画する装置」については、自分でもいろんな想像をするし、もしそんなことが実現するとしたら、すごいことだなと思う。本当に夢のよう。
夢だとか想像ってなんだろう、現実ってなんだろう、この頭の中にあるものと外にあるものは何がどう違っているんだろう、ということを性懲りもなく想像する。

夢を録画するということに限らずとも、人は頭の中にある何かを、心に生じている何かを、この五感でもう一度感じ直すことができるような工夫をずっと続けてきている。

自分がたった今、さっき、ずっと昔に感じた何かを、時間に吹き飛ばされて消えようとしている何かを思い出そうとしても、常に目が覚め続ける眠りのように、それは不確かに再現され続けている。

「理解」 という状態だとか現象が真にどういったことを指すのかはわからないけど、ごく単純なたとえ話のひとつに置き換えるとしたら、知恵の輪とかパズルのようなものを一旦解いて、それをまた元の状態に戻すことが自由にできる状態のことを言うのかなと思う。問題を解くことができるのと同じくらい、問題を作ることができる状態とも言えるかもしれない。先生が生徒に教えようとしていることを察知して、いい質問だ!と言わせるような芸当もそういう状態の発露なのかなと思う。

入っているものを、出す。出ているものを、入れる。
これを何度繰り返しても等しくなっている状態は、あり得るのだろうか?それは、人がなにかを実現するという現象自体が実在するのかどうか?ということになるのだろうけど、さらに言えば、人は何かを感じているのか?ということになり、この心は実在するのか?ということに等しいような気もする。

眠っていたときの無意識を再現できるということは、一分前の自分が確かになって、一年前の、十年前の、生まれてきたことを再現することで、目が覚めているときの意識を五感に入れ替えられるということは、一分先の自分が確かになって、一年先の、十年先の、いつか死ぬことを実現する、理解することなのかな、というようなことを想像してしまう。

人はなぜ占うのか

占い。

占い(うらない)とは様々な方法で、人の心の内や運勢未来など、直接観察することのできないものについて判断することや、その方法をいう。卜占(ぼくせん)や占卜(せんぼく)ともいう。(wikipwdia)

(人によっては)神秘的。不思議。おもしろい。たのしい。
(人によっては)あやしい。偶然。非科学的。無根拠。無意味。

しかし人は日常的に、無意識のレベルで毎日なにかを占っている。
人は説明のつかない非論理的な事柄に対して占いをすることが多い。

あの人は私のことを好きなのだろうか?嫌いなのだろうか?
この料理の味を私は美味しいと感じるだろうか?
この樹木の形は美しいのだろうか?
"そこまでとべたら、じいちゃんは治る"
乗るか反るか。丁か半か。
oh my god!

など、物理法則と数学で完全に説明できないことについて人はそれを我慢できない。
耐えきれないようになっているように思う。少なくとも自分自身はそう思っている。

右脳と左脳の働きについてそこまで知識や理解があるわけではないが、これまでに聞き及んだいくつかの面白い見解を組み合わせて説明してみる。

右脳と左脳は脳梁という神経繊維が束になっている器官で繋がっているが、それ以外の部分は完全に物理的に分離していて、なおかつ、それぞれの機能がまったく異なる。

右脳は「たった今、この瞬間」しか感じていない。
感じるって、なに?というところまで遡るとさらにややこしくなる。
ここでは単純に、感じる、と仕方なく表現する。
全世界の現在そのもの、五感から流れ込んでくるリアルタイムのエネルギーの姿。
それ以外のことに「注目することも、考えることも、認識することも」できない。

左脳は「これまで」と「これから」しかない。「今」というものを認識しない。
川の流れに手を突き込んで水の流れを感じることに例えるなら、これから手に向かって流れてくる水と、手に当たって流れ去って行った水の、その二種類しかわからない。
これは、他人がそのようにしているのを、第三者の視点から観察している状態に似ている。
その「手自体」の主観そのものが存在しない。

逆に言えば、目をつむって、状況や、過去や未来を考えず、ただただ手の感覚のみに身を任せている状態の一瞬一瞬を右脳が感覚していて、それを他人のように観察し、別の場所から考えるべきことだけをかいつまんで、論理や言語で思考し「意味」を「理解」するのが左脳であると言える。

このように、自分たちの頭の中は、まったく正反対のことを感じ・考える、ふたつの別人格がいっぺんに共存している状態と言えるらしい。

理解できることと理解できないこと。
意味のあるように思えること、思えないこと。
右か左か。

そういった状況に常に心は引き裂かれ、迷い続け、苦しみ続ける。
そのようにできているからこそ、人間は人間にしか出来ないことを成し遂げる。

宗教だとか、占いだとかは、科学の発達以前から人間の道具だった。
むしろ、非論理から論理が生まれ、論理に照らし合わせたからこそ、非論理という概念が生まれてしまったとすら言えるだろう。

両者はニワトリとタマゴの関係をとっていて、どちらがどうだと片方だけに固執するのは、偏ったものの考え方だと言わざるを得ない。

老人が仏壇に向かって手を合わせることを軽蔑する子供がいるが、論理一辺倒で育った感覚が、説明できない事態に立ち向かう勇気をもつことなどできるのだろうか。
それとも、説明できないことなどない、という教義をもつ宗教をつくるのだろうか。

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非論理の歴史では、金剛界と胎蔵界といって、有史以前から、
既に精神世界と物理世界を完全に別のものであると考えていたようだ。

精神(非実在)の問題は精神の問題。
肉体(実在)の問題は肉体の問題。

論理的な苦痛は非論理では解決できない。
非論理的な苦悩は論理では解決できない。

心の苦しみを救うのは非論理。
肉体の痛みを救うのは物理(論理)。

先人は、はるか昔、太古の昔から、それを知っていたという。

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右脳的な感覚、つまり「全部」を、ただ通り抜ける。
なにひとつにも囚われていない。100%の透明で、何も考えていない。
自分と世界の境界が存在しない状態。
世界という海の中へ、自分という輪郭でできた厚さ0ミリの枠を放り投げるだけの装置。
なにものにも触れず、なにものからも触れられない。ただ、通り抜けるだけ。
大気とか、頭上にある空、風のような状態。無。
これを「虚空」と表現することがあるようだ。

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2014年3月30日日曜日

人生

2014年 3月某日。

ある朝、加藤がなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一つの巨大な袋に変っているのを発見した。完全にアタマがブッ飛んでおり、過去・現在・未来を見通す、神か悪魔か妖怪変化かに変身でもしてしまったか?と、半ば本気で思った。

あるいは、ジル・ボルト・テイラーという脳科学者が、自ら罹患した脳卒中を内側から観察したときの所感のように、まさか物理的・生理的に脳が破損しているのではないだろうか?と、残りの半分の可能性で心配した。

2012年の暮れから続いていた鬱の、ひとつの結末だ。
あのとき、駅のホームで頭がおかしくなったのをはっきり実感した。
精神崩壊と言うのも大げさだし、ごくごく簡単に言えば、要は、もう無理!と思った。
完全に、意味不明になって、生きていても何にもならない。ファックだと思った。
要するに、頭が死ぬほどファックするまでシゴかれたのである。

あのときは二年半くらい夜勤を続けていて、職種はコールセンターのリーダーだった。
昼間は真っ暗な暗室で過ごし、夜中は職場でクレーム処理に追われる日々だった。
職場の人間関係もそこまで良好ではなく、自分が浮いていることも無視していた。
冷静に振り返れば、ぶっ壊れないほうが不自然な生活態度だった。

とにかくお給金がよく、その美味しさはとても手放せるものではなかったし、言語能力およびヒラメキと、地道なオペレーションの積み重ねとのバランスがよくて、正直、すごく好きな仕事だった。ここを抜けたら、もうあとが無いな〜!と、よく冗談を言っていた。

ジワジワ、ジワジワと、些細なことからうまくいかなくなってきていた。
モチベーションのようなものが枯渇していた。
グルグルグルグルしていて、まったく前進していなかったし、したくなかった。
向こうにあるものは断崖絶壁であると予感しながらも、行くことも戻ることもせず、ひたすら、お金をもらうためだけに、なにかを押し出していたのである。
そう、人生を。

そうしたところから、ビョーキという結果でリタイアを果たした。
それから1年弱、またもやドロドロした日々を送った。
ただ、それまでと違うのは、制作に打ち込む機会を得られたということだった。
この1年は、デザフェスだ!!ということで、鬱からの脱却をはかった。
モチベーションと???のみで脳を奮い立たせ、制作に関わった。
このあたりは、小冊子「制作なんとか ♯1」にくわしい。
(イヨマンテのトップからダウンロードページにジャンプできます)

そうした1年を経る中でも、やはり気を抜くとドスンと落ちてしまい、部屋から一歩も出られなくなってしまう日も多かった。目が覚めた瞬間からなにかに恐怖しており、焦燥感に駆られて、ソーシャルネットワーキングサイトに思いの丈を書きなぐっていた。

とにかく、ずっと悩んでいたことはというと、とにかく意味不明だということ。
自分は、この世というものについて、何ひとつ、チリひとつ理解できない。本気でそう感じていた。便宜的に、記号の交換をするだけで、自分が生きているのか死んでいるのかさえ不明で、無明で、末法だった。ゾンビだった。この世には誰もいない!!と泣き叫んで狂って死ねば、気が済むだろうか?ということばかり考えていた。

過去のトラウマと向き合うなんていう発想は、なかった。
文字通り、存在していなかったのである。ないものは、ない。
認識のすごさというか、石ころ帽子をかぶせたように、無価値な宝物を、そう扱ってしまっている、という事実だけを頼りに、無意識の領域にしまいこんでいた。

で、事件が起こる。

あれは一種の契機だったのだろう。
一気にすべてが崩壊し、それまでの価値観を根底から破壊するような、ほとんど生きたまま自殺するような精神的変貌を経て、坊さんになってしまった。
坊さんになった、というより、パーフェクトに遁世し切った。

そして、10日間かそこらのあいだに、10や20ではきかない奇跡を連続で引き当て、人生がある転機を迎えたことを理解した。そのハチャメチャな転生の記録はまた書くとして、とりあえず区切りがきた。

これを「躁転」と表現することが正確かどうかはわからないが、個人的には、まったく違うと信じてやまない。

確かなことは、以前にもまして、可笑しい奴だ!と笑われていることである。
今はそれを幸福に感じる。

これでいいのだ。




2014年3月7日金曜日

わかったよ

いろんな宇宙があるらしい。
なんとなくそう思った。