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2014年5月24日土曜日

くるくるパー

たまに、自信というものについて人と話し合う機会がある。

自信があるときと無いときの差が激しくて自分自身の生き方のパフォーマンスにムラが出てしまうだとか、生まれてこのかた自信をもてたことなどないし、根拠の無い自信をもっている人間を憎んですらいるだとか、そんなことをあーでもないこーでもないと話し合う。

自信は、生きていくうえでたいへん大切か、またはまったく役に立たないかというところに集約して、大まかな結論としては、だいたい2通りに分かれることが多いように思う。

それはつまり「生きよう」もしくは「死のう」という方針だ。
白か黒か。

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いろいろあって自分は一回死んだと思っている。

それはつい先日のことで、この自我はそのときドカンと爆発して急激に冷却され、今はふたたび平常に活動を続けているのだが、そのことを振り返って考えるとき、それまでと変わっていないことと、変わってしまったこととがあるように思える。その項目はたくさんあるので、いま書きたいと思っている点にスポットを当てたいが、関係ないようなことも交えて気分の向かうままに書きたい。

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・濃い影と薄い影

以前から、誰かと会って話したり、一緒に仕事をしたり、たまたま同じ電車の車両に乗り合わせていくつかの駅を通過したり、交差点ですれ違ったりするとき、人の影の濃さというか、存在している感じが強い人がまばらに見つかる。ような気がする。

ある人が、鉛筆でデッサンを描くとき「影」の描き方についてあることを発見し、それから上手に「影」を描き表すことができるようになったが、その代わり、巨大なビルが作り出す巨大な影に対して恐怖を感じるようになった、という話をしていたのを見かけた。

その「影についてのあること」というのは、影は「穴」であるという考え方だそうだ。
その話を見かけたとき、以前から感じていた、存在感を強く発している人物というものについて、符合するものを感じた。

光が何かにぶつかって、何かが光を「遮っ」て、その結果として穴が空いてしまったエリアを影とするならば、その「穴」に、深さというか、不透明感の違いを見ているような気がした。

より黒く、より深い「穴」をつくりだす、存在という「障害物」の透明度が低ければ低いほど、ふりそそぐ光をより遮れば遮るほどに、穴は黒く深くなる。

これは暗室での引き伸ばし作業についての印象と完全に一致する。
ネガを通り抜ける光、その光を受け取った分だけ黒く焼けこげる印画紙。

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・透明度の低い障害物

透明度というのは、光をどのくらい通すのか、どのくらい光に「通過されてしまうのか」というイメージで、光、というよりは「自分以外のすべて」と言い換えた方が良い気がする。

外部の世界(光)と、よりリンクしていて、より呼吸していて、より「光」を吸い込み、より何かを「遮って」いる存在というのは、光が通過しない。ふりそそぐ光を食っていて、取り込んだ光を消化し、その光を違うエネルギーに変換して、それを排泄している。それに光が当たった結果、黒く深い穴ができる。

外部の世界(光)と、ほとんどリンクしておらず、ほとんど呼吸をしないで、排泄とかエネルギーの交換をしていない存在というのは、光が通過する。それに光が当たった結果、透明な影ができる。

それに善悪があるわけではなくて、ただ、かたちと諧調と濃淡とが無機質に現れているだけだ。

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「少しも露光していない透明なネガ」が真っ黒な印画紙を生み、「完全に感光しきった真っ黒なネガ」が真っ白な印画紙を生むように、これは極端と極端を観察している状態に過ぎない。

人間をある状態のネガに例えること自体はただの夢想の域を出ないのだが、少なくとも、実際の写真においては、そのネガの中に、何が、どのようなかたちや諧調や濃淡をもって宿っているのかを、「真っ白と真っ黒」のはざまで、膝を突き合わせて観察する。

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自分のうしろに、または頭上に光があって、その光は自分を貫通し、その影が自分の前方に、または地面に影を落としている。

その影の姿は、自分の写真だ。

自分の心は、ネガという反転した存在であって、ポジとしての現実がつまり「自分以外の
すべて」であるなら、ネガという心は「すべて以外の自分」だ。

まず光があり「その下で」何もかもは完全に鏡映しになっている。

光と影が直接にあるのではなくて、まず光があり「その下で」ネガとポジが完全に反応している。

その光というのは、たぶん命のことだと思う。

そしてその光は無数に散在しているのではなくて、ひとつの太陽と無数の星々との関係のように、思い切り言ってしまえば、命はひとつしかないのだと思う。

「自分」は、その光の下で、ネガとそれを通り抜けた像を現している。

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「生まれたら死ぬ」ということを「死を生んでいる」と誤解することをやめるべきだ。
それは真っ黒な、または真っ白な印画紙であり、なにも写っていないことに等しい。

「何かが写っている」ということに、注意を払わなくてはならない。

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